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どこでも良いという意思決定?
「どこでもいいので、他を紹介してください。」
今の仕事先が嫌になり、やめたい相談を受けました。実務上、良くある話ですが、とにかく人によっては、すぐにやめてしまうのが派遣です。
職場の雰囲気に合う、会わないは確かにありますが、事前に入社の意思を確認した上で、就業先へ入っていただいてるのですが。しかも次の仕事どこでもいいだなんて。
(ちゃんと選ばないとやめちゃうじゃないですか、また。)
なかなかお仕事と人のマッチングは難しいです。
ここで疑問が生じます。果たして、彼らは、条件、職場の雰囲気等を吟味してるいんでしょうか。
自分で意思決定出来ているのでしょうか。
自ら選択しているようで選択させられてる
答えは、「出来ている人もいれば、出来ていない人もいる」だと感じますが。
正確に言えば、「意思決定をしている人もいれば、意思決定を放棄している人もいる」かもしれません。
以前、1人の派遣社員から、こんなことを言われたのを思い出しました。
「今まで正社員でやってきて、初めての派遣ですが、やめた後も丁度良い仕事を紹介してくれて非常に楽です」と。
私自身、転職2回経験しており、その際は、転職サイトやエージェントを活用しました。
多くの求人を紹介され、その中からいくつかを選び、応募に進みました。
一見、自らの意思で選択した求人に応募しているようですが、そこにはエージェントが優先的に紹介したい求人もあったかと思います。
その場合、私の決定は、自ら選択しているようで、選択させられてる意思決定になります。
純粋な選択した意思決定などないのか?
そんなこと言ってしまうと、洋服を買いに行き店員さんに勧められた物をそのまま買ってしまった場合はどうでしょうか。
勧められた物を買うという意思決定はされましたが、数ある商品の中から、自分自身で選択、吟味したものではありません。
店員さんが「売りたい!」と思った物です。他人の意思の補完を自身でしてることにあたります。
誰かに操ってほしいのか
ふと、Gamerという映画のセリフを思い出しました。
その映画は、近未来の物語で、チップを脳に埋め込まれた人間をアバターとして、他人が操作するサービスが展開される作品でした。リアルな人間をアバターにして、戦わせたりもします。
開発者は、ニュースキャスターに質問を受けていました。
「他人を操作することは、倫理的にいかがなものでしょうか?」と。
そこで開発者は言います。
「世の中には、自分で意思決定したい人はいますが、それだけでしょうか。中には、自分の行動、意思を誰かに決めてもらいたいと思ってる人もいるはずです。」と。
私も初見で、その映画をみた際、確かにそうだと、変に納得した記憶があります。
誰しも考えたことがあるのではないでしょうか。自分で考えなければ楽だなと。
共感能力が意思決定を妨げる
ユヴァル・ノア・ハラリ著のサピエンス全史によれば、人類(ホモサピエンス)が繁栄できた理由の1つに「認知革命」があったことを挙げている。
これは言わば帰属意識的なもので、価値観の共有とでも言うのでしょうか。
例えば自分は日本人であるという自覚や、自分は○○会社の社員であるという認識は、自分の認識だけでなく、自分の知人であれば認識していることである。
これが認知革命で起こった、人の思考、認知の変化です。一つの認識を他人と共有できる能力。実は人類特有の能力なのです。
しかしながら、この元々備わってる能力は、1つの個体としての自身の意思決定を阻害する要因にもなります。
なぜなら、自分が帰属している、国、会社、家族等のルールが存在しており、その上での意思決定が行われているからです。
純粋な他人に侵されない意思決定をするには、無人島に一人で生まれて、一人で育ち、一人で行うしかありません。
ただこの場合、意思決定の概念が、その人に備わるかどうかはわかりません。
選択の自由は人々の迷いを助長させる
話は飛躍しましたが、帰属意識等の前に日々、情報のシャワーにさらされている私たちは、気をつけていても様々なものに流され、翻弄されてしまいます。
立ち止まって考えることはしていかなければならないと感じます。
また帰属している状況の中でも、自分で意思決定していると実感していきていくのと、いかないのとでは自身の人生に対する充実感や目標達成意識に関わってくるでしょう。
私たちは、幼い頃から将来の夢、希望を吹き込まれてきました。未来は明るく、選択肢、可能性を広げるために進学し、勉強を強いられます。
教育から社会人へのフェーズの変更の過程で、あまりにも無惨に投げ出される現実は、意思決定の隙もなく流されていく人間を量産していくのかもしれません。
まとめ
自分の行動を決めてくれたり、自分の人生の正解を導いてくれたりする人がいたらどんなに楽かと考えます。
自ら思考し、意思決定していかなければ、人に利用されたりすることもあるでしょうし、何よりも「紛れもなく生きている」という自身の実感を失う危険性を秘めています。
例えルール上の意思決定であったとしても、偽りであったとしても、自ら下した決断という実感こそが自分の存在を存続させる手段である。